旅に出たい人が書いたぶろぐ(仮)

元添乗員の「おこめ」が語ります。

お城へ行こう・石垣の基礎知識【石垣の構造】

みなさんはお城へ行くときに、何を目的に行きますか?

おそらく城郭(天守閣)だと思います。

ある程度石垣の知識がある私からすると

「なぜ石垣を見てくれないの?」

「こんなにおもしろいのに」

と切実に思います。

 

なぜ面白いと思うのか。

それは「時代によって全く異なるから」なのです。

積み方を見れば、ある程度積まれた年代がわかるんですよ。

すごくないですか?

そんな石垣について少しずつ語っていきたいと思います。

 

 

【目次】

 

石垣の構造

日本の城郭石垣は、接着材料を使用しない空積みで

法(のり)と呼ばれる傾斜と、反り(そり)というカーブが特徴です。

一般的に反りがなく法が緩い石垣が多く

技術の発達に伴って、角度が急になり反りが出現すると言われています。

 

石垣の表面から順に築石(つきいし)、裏込栗石(うらごめぐりいし)、

盛土で構成されています。

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つたない絵で描けば、こんな感じです。

表面に出ているのは築石と呼ばれる部分。

裏込栗石は当然見えませんが…

 

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熊本城の馬具櫓下の石垣では、裏込栗石まで見ることができます。

赤丸が築石、青丸が栗石。

 

ほんの少しですが、これだけの知識があるだけで

崩れた石垣もちょっと興味深くなりませんか?

 

ちなみに間詰石は固定されていません。

触れば簡単に動きます。

 

時代と石垣

石垣が城全体にめぐらされるようになったのは、

近世城郭のはじまりとされる安土城滋賀県)が最初と言われています。

その後「一国一城令」が出される1615年までの約40年間、

石垣普請の技術は常に発展していきました。

 

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府内城 (1597築城)

初期のころはこのような感じで

ほとんど加工されていない大小様々な大きさの石で

積まれていました。

目が粗いので手がかり、足がかりができ

登りやすいのという欠点がありました。

いつかこれについても語りますが

この積み方を「野面積(のづらづみ)」と言います。

 

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徳川大阪城(1626)

その後石を加工し、隙間をなくす積み方へと発展していきました。

このように石同士の隙間をほぼなくしたものです。

元和以降(1615~)になるとこの積み方が多様されるようになりましたが

技術やコスト面であまり普及しなかったようです。

この積み方を「切込接(きりこみはぎ)」と言います。

 

特徴的な石垣

 

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岡城

石垣塀上に並んでいる石を「かまぼこ石」と言います。

製造方法、特殊な形の目的についての詳しい資料や定説がなく

謎めいており

何番模様を装飾した飾り石という説

ほぞ穴が並ぶ場所があることで板塀があったという説や

手をかけにくいことから

防衛のための工夫など様々な説があります。

 

 

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日出城

2種類の積み方があるのに気づきましたか?

このように石垣を継ぎ足すことは決して珍しいことではありません。

継ぎ足す理由は様々ですが、

見つけるのは決して難しくないと思います。

ただどこの城でもあるわけではないので

もし行く予定があれば、

あらかじめ少しだけ調べてみるのもいいかもしれませんね。

 

積み方の基礎知識があれば、

どの時代に継ぎ足されたかわかるので

新たな発見があるかもしれません。



 

 

 

 

菅生神社(愛知県岡崎市)

本日は先日の岡崎城のお隣にある、菅生神社のご紹介です。

こちらは御朱印でかなり有名なので

ご存じの方も多いかと思いますが、おこめの独り言だと思って読んでください。

それでも今日も語ります。

 

【目次】

 

菅生神社とは?

 

第12代景行天皇の御代 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東征の時(西暦110年)、
高石(今の菅生河畔の満正寺あたり)にて矢を作り、

神風にて一矢を吹き流し、

その矢を以って伊勢大神を奉祀されました。

当社は、この時創建された岡崎最古の神社です。

大事なことなので、もう一度言います。

岡崎最古の神社です。

 

以前は岡崎市出身のマルチクリエータールネ氏とコラボした絵馬もありました。

okazaki-kanko.jp

すみません、現在はわかりません。

ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご連絡をお待ちしております。

 

御朱印

初めて訪れた時、御朱印で有名だと知らずに行き

「本日は通常の御朱印ですが、よろしいですか?」

と言われ、なぜそんなことを聞くのだろう?と疑問でした。

後々にその理由が判明したわけです。

 

通常の御朱印

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御朱印にも「岡崎最古の神社」との文字が入っています。

 

限定御朱印

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12月26日が徳川家康の誕生日ということで

その記念の御朱印です。

以前は26日前後のみだったようですが

最近はコロナの影響で、長期にわたって授与されているようです。

 

期間限定御朱印公式FBに載っています。

行かれる予定がある方は、FBをチェックしてから訪れることをお勧めします。

 

御朱印

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大判のものです。

以前からこのサイズのものを探していたのですが

なかなか出会えず、とりあえず小さいサイズのを使っていたのですが

やっぱり大判のものが欲しい!

ということで悩んだ末、ちょっと高かったですがこちらを使うことにしました。

初穂料3,000円。

 

でもその価値はあると思います。

表紙は西陣織、中は高級和紙。

見返すたびにうっとりしてしまいます。

 

私はいくつか御朱印帳を持っているのですが

これは1,2を争うお気に入りです。

 

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こちらの御朱印帳を購入するといただける限定御朱印です。

 

 まとめ

 本来御朱印とは「拝観した証」です。

近年は御朱印ブームにより、スタンプラリーのような扱いになっているところがあるようです。

以前にとある雑誌のお出かけ特集で

「スタンプラリーのように御朱印を集めではどうでしょう」

というような記事を見かけました。

御朱印を集めることには反対はしませんが

「スタンプラリー」と同類にされていることは残念でした。

 

あくまでも「拝観の証」であることを忘れずにいて欲しいものです。

 

 

岡崎城へ行こう・石垣好きにはたまらないです

今日は昨日の徳川家康つながりで

徳川家康生誕の地、岡崎城などどうでしょうか。

 

実は私、幼少のころは岡崎市民でした。

なので岡崎城はとてもなじみの深い場所でもあります。

岡崎市民であったときは全く知らなかったのですが

石垣好きにはたまらない城ではないでしょうか。

そんな岡崎城について、元岡崎市民であり、

元添乗員の「おこめ」が今日も語ります。

 

【目次】

 

岡崎市民にとっての岡崎城

完全に主観で語ります。

実体験をもとにしているので、事実と相違があるかもしれません。

 

私が幼少のころは、岡崎市のイベントはほぼほぼ岡崎城で行われていました。

城郭の中、という意味ではなく、城=敷地という意味です。

毎年春には桜がきれいに咲き、桜まつりが行われます。

多くの出店が並び、デートスポットにはおススメです。

また桜と城のコラボレーションで素敵な写真も撮れます。

夏には花火大会が行われます。

なかなかの大きな花火大会ですので、これまた桜以上のデートスポットです。

 

また何かと集合場所的に使われることもありました。

部活の大会もここで行われたこともあります。

神社もありますので、七五三も行われます。

岡崎市民にとっては、日常の一部のような場所です。

 

城郭としての岡崎城

 実はかなり地味な存在だと思います。

それでも日本100名城のひとつに数えられています。

 

jokaku.jp

 

城の内部は再建天守にありがちな、資料館になっています。

ごめんなさい、私はそこまで興味はないので詳しい内容はわかりませんが

公式HPを見る限り、あぁ、そうなんだ、という感じでしょうか。

 

岡崎城の石垣

 

でも見てほしいのは石垣です。

岡崎市民だったころは、岡崎城の石垣がこんなにすごいとは知りませんでした。

石垣が多くあることはわかっていましたが

もう、岡崎市民に戻ってもいい、というくらいの石垣です。

(その語彙力でいいのか?)

 

とりあえずこちらを見てください。

okazaki-kanko.jp

岡崎城は決して大きな城ではないのですが

この石垣マップがあれば、私なら3時間は楽しめます。

 

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転用石が見られます。

 すみません、これ転用石ではないようです。

 今後はきちんと調べてから投稿するようにします。

 

この石があるところは…

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発掘調査により全長400m、高さ5.4mにもおよぶ石垣ということがわかりました。

これは国内最長です。

城外郭の防御、治水の役割があったそうです。

 

 写真があまりないのでこれ以上多くは語れませんが

積み方もいろいろありますし、少し気を付けて見ると

何気なく見えるものでも、少しだけ特別なものに見えたりもします。

岡崎城へ行かれる際は、この石垣マップをぜひダウンロードしてから

行ってみてください。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

岡崎城への旅が少しでも楽しくなるお手伝いができたらと思います。

今日も「よかったよ」と思っていただけたら

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名古屋城へ行こう・名古屋城の屋根はなぜ緑?

名古屋城天守閣は現在中に入ることはできません。

公式HPをご確認の上、お出かけください。

 

今日も元添乗員の「おこめ」が語ります。

普段とちょっと違うものの見方をすれば、

いつも以上に新たな発見があること間違いなしです。

 

昨日の名古屋城の石垣に続き

今日は屋根について語ってみようと思います。

公式HPにも載っていないうんちくです。

(もし載っていたらご指摘お願いします)

 

【目次】

 

 

緑の屋根の城

 

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名古屋城天守閣です。

名古屋城の屋根の色、なかなか特徴的ですよね。

ちなみに大阪城も同じ色です。

 

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屋根瓦といえば黒っぽい色を想像すると思うのですが

この2つの城はなぜ緑なのか。

考えたことはありますか?

我が家の屋根瓦は緑なので、

緑の瓦が特別珍しいというわけではないのでしょうが

わざわざ城に緑色の瓦は使わないですよね。

 

名古屋城大阪城の屋根が緑なのは「さび」が原因なのです。

さびと聞くと劣化をイメージすると思うのですが

これらのさびは違います。

理由を知るとドヤ顔で他人に話したくなること間違いなしです。

それは大げさですが、

ちょっと他人に話したくなる気持ちにはなるかもしれません。

 

 

何を使って作った瓦なのか

さびる瓦なので、陶器瓦ではありません。金属瓦です。

江戸時代になると、金属加工の技術が進み、

金属瓦が多く使われるようになりました。

この名古屋城の屋根に使われている銅瓦は高価であったため、

一般家庭には普及しませんでしたが

城郭などの屋根材には多く使われていました。

その理由は軽さと高い耐火性です。

また高価な銅瓦を使うことは、権力を誇示するという意味でも

大きかったと思います。

 

この名古屋城は1612年に徳川家康が天下統一に向けて

幕府の体制を確立したいという意思が込められていましたので

権力の誇示はとても重要なことであったと思います。

大阪城に関しても同じことが言えるのではないでしょうか。 

 

なぜ緑なのか

屋外に置かれた銅の表面は経年のうちに雨水によって酸化し

緑色の緑青(ろくしょう)と呼ばれるさびが発生します。

時々10円玉に緑のさびがついているのを見かけませんか?

あれと同じさびです。

「見たことない」と思ったら、しばらく屋外に置いておいてください。

きっと緑青が発生すると思います。

実験したわけではないので、発生しなかったらすみません。

この緑青が銅表面の保護被膜となり

長期間にわたる耐久性を発揮するのです。

銅は耐火性や耐熱性が高いことから第2次世界大戦中も

名古屋城は焼けない」と言われていたほどです。

でも 実際には焼けました。

天守閣の金鯱を下すために組んだ足場から出火したと言われています。

もしかしたら足場を組まなかったら焼失しなかったかもしれません。

 

もし足場を組んでいなかったら…焼失しなかったのでしょうか。

それにしても鯱は建物が火事の際に水を噴き出して火を消すと言われているのに。

 なんとも皮肉な話です。

 

 

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名古屋城へ行こう・加藤清正の石垣

今日は加藤清正つながりで、名古屋城の石垣について語りたいと思います。

名古屋城は現在老朽化や耐震性の確保などの問題に対応するため

現在天守閣は閉館しています。

それ以外は見学できます。

 

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【目次】

 

名古屋城はどんな城?

名古屋城は慶長20年(1615)、徳川家康によって建てられました。

黄金の鯱を頂き、史上最大の延べ床面積を誇った大天守

絢爛豪華な本丸御殿、

さらに鉄壁の守りを固めた要塞としての機能を備え

城郭として国宝第一号にしていされた名城でした。

戦災で焼失後も、国内屈指の城郭として国の特別史跡に指定され

復元された本丸御殿などが、往時の姿を鮮やかに使えています。

 

 

名古屋城の石垣

天守台石垣

名古屋城の石垣は、徳川家康の命により西国を中心とした20の大名による

公儀普請で築かれました。

 名古屋城の石垣の丁場割を見ると、重要な天守台の丁場は加藤清正が任されました。

これは徳川家康加藤清正の技術の高さを認めていたからだとされています。

 

 

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清正石

名古屋城で最大の石垣石財、ここ本丸搦手(からめて)枡形の石垣は黒田長政の担当であったが

巨石であるがゆえ普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ

清正石と呼ばれてきた。

(石横の案内看板より)

 

 

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石垣の刻印

 

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 石垣に丸の中にTのような文字?記号?があるのがわかりますか?

これは刻印と呼ばれているものです。

刻印とは、丁場(各大名の割り当てられた区画)の範囲を示すため

また各大名が運搬してきた石垣の所有を示すために

石材の表面に彫り込んだ様々な記号のことを言います。

刻印がないと誰の所有する石かわからなくなり、石を横取りしたり

盗難による大名間の争いが絶えませんでした。

 

 名古屋城は多くの大名に細かく割り当てられていたせいか

刻印は多くの場所で見られます。

探さなくてもすぐに見つかります。

刻印は家紋であったり、文字であったり、記号であったり、いろいろです。

名古屋城のHPを見てみると、丁場割りが見られるので

その図と刻印を照らし合わせてみると、おもしろいかもしれません。

 

 

名古屋城の石垣は本当に多くの大名によって石垣が築かれているので

その点に気を付けながら石垣を見てみると、新たな発見があると思います。

名古屋城といえば「金の鯱」「二の丸御殿」が有名だと思いますが

次に行くときはその中に「石垣」を加えてみてください。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

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熊本城へ行こう~重要文化財には気をつけろ~

新型コロナウイルス感染症の急速な拡大の影響により、熊本城特別公開は中止となっています。

行かれる場合は公式HPにて確認してからお出かけください。

 

熊本城には重要文化財がたくさんあります。

ご存じでしたか?

今日はそんな重要文化財について語っていきたいと思います。

 歴史や文化に興味がなくても、ちょっとした知識をもって見てみてください。

今までとは違う発見があるはずですから。

 

【目次】 

 

重要文化財って何? 

文化庁HPによると

 

文化財は,我が国の長い歴史の中で生まれ,はぐくまれ,

今日まで守り伝えられてきた貴重な国民的財産です。

このため国は,文化財保護法に基づき重要なものを

国宝,重要文化財,史跡,名勝,天然記念物等として指定,選定,登録し,

現状変更や輸出などについて一定の制限を課す一方,

保存修理や防災施設の設置,史跡等の公有化等に対し補助を行うことにより,

文化財の保存を図っています。

また,文化財の公開施設の整備に対し補助を行ったり,

展覧会などによる文化財の鑑賞機会の拡大を図ったりするなど

文化財の活用のための措置も講じています。

さらに,我が国を代表する文化遺産の中から顕著な普遍的価値を有するものを

ユネスコに推薦し,世界文化遺産への登録を推進しています。

 

とあります。

簡単に言いますと「国宝の次に重要な文化財」ということでしょうか。

ちょっとざっくりしすぎていますが、歴史的な価値がありこれからも大切に守っていくべきものと考えればいいのではないでしょうか。

 

熊本城の重要文化財はどれ?

 熊本城には合計13棟の重要文化財があります。

 

宇土

・監物櫓(長岡図書櫓)

・平櫓

・五間櫓

・北十八間櫓

・東十八間櫓

・源之進櫓

・四間櫓

・十四間櫓

・七間櫓

・田子櫓

・長塀

・不開門

 

 おそらく聞きなれないものが多いのではないでしょうか。

多くの方が熊本城へ観光へ行く場合、天守閣をメインにし

あまりこういった櫓は見ないと思います。

しかしちょっと知識をもって見てみると、

何気ない櫓も少し特別に見えてくるはずです。

 

宇土櫓については、以前の記事を参考にしてください。

 

okome-kg.hatenablog.com

 

重要文化財の被害状況

平成28年熊本地震で、重要文化財も大きな被害を受けました。

令和3年現在でもまだまだ復旧が進んでいません。

被害の状況を見ることができるものもありますので、

見られるものはぜ見てください。

 

宇土

壁の漆喰や床などが破損し、続櫓は平左衛門側に倒壊しました。

土台となる石垣にも大きな膨らみがみられます。

 

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監物櫓

櫓は壁土が大きく剥落したほか、櫓台石垣の上部が膨らみました。

また西側に隣接する石垣の一部が崩落しました。

 

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平櫓

床下の地盤が沈下し、土台となる石垣が大きく膨らんだことにより

建物の壁や屋根が損傷しました。

 現在解体されており、見ることはできません。

 

東竹の丸 平櫓群と石垣

平櫓群のうち、曲輪南側にある田子櫓から源之進櫓までの櫓は壁が破損し

田子櫓、七間櫓では建物が傾きました。

曲輪北側にある、北十八間櫓と東十八間櫓は、土台の石垣が崩壊したことにより

倒壊しました。

 

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櫓を見ることはできませんが、石垣がこのように補強されていました。

 

 

長塀 

坪井川に沿って建てられており、現存する城郭の塀の中では

最も長い242mを誇ります。

川の反対側には所々ベンチが設置してあり、

市民の憩いの場になっているのでしょう。

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2020年11月はこのような状態でした。

 

 不開門

2階の櫓部分が倒壊し、門部分にも歪みが生じました。

周囲の石垣にも被害があり、城外に通じる通路側では広い範囲が崩壊し

通路がふさがれました。

 現在は解体されており、見ることはできません。

 

被害総額は重要文化財だけで約72億円にも上ると言われています。

一日でも早い復旧を望み、特別公開が再開される日を楽しみに待ってるところです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

お帰りにぽちっとお願いします。

 

 

 

 

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熊本城へ行こう~熊本城が銀杏城と呼ばれる理由~

新型コロナウイルス感染症の急速な拡大の影響により、熊本城特別公開は中止となっています。

行かれる場合は公式HPにて確認してからお出かけください。

 

 

 

銀杏城という名の由来

熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれています。

それは本丸にある大銀杏に由来しています。

現在は特別公開が中止されていて本丸へは入れないので

公開が再開されたら、ぜひ見に行ってください。

 

 

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食料に困った加藤清正

加藤清正慶長の役で、明、朝鮮連軍との間で行われた「蔚山城の戦い」で

寒さの中、食料が尽きてしまうほどの激しい籠城戦を経験しています。

九死に一生を得て日本に帰国したことが大きな教訓となりました。

この経験から熊本城内には地下水をくみ上げられる井戸をおよそ120ヶ所堀り

非常時の食料としてレンコンが栽培され、銀杏が植えられました。

 

ただこの銀杏は雄木なので、実はならず食料確保はできません。

後々の人が、清正の朝鮮出兵の際の 食料不足の逸話とつなげているという説と

清正が雄木と知らなかったという説があります。

真実は清正のみが知る、というところでしょうか。

 

そして熊本城の畳には芋茎(ずいき)を入れ、

壁に中には干瓢(かんぴょう)を塗り込んで

いざというときに食べられるようにするほど

食料確保に徹底したと言われています。

 

こうした籠城対策が、熊本城が最強の城と呼ばれる理由です。

 

 大銀杏と西南戦争

 西南戦争(1877)で、熊本城に立てこもった政府軍は、西郷隆盛が率いる

反乱軍の執拗な攻撃を52日間にわたり耐え抜きました。

結局攻めきれず、退去を余儀なくされた西郷隆盛が残した

わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。

という言葉は有名です。

またこの戦争で天守とともに大銀杏も焼失しました。

現在でも焼失した銀杏の幹には焼けた跡が残っています。

現在ある大銀杏は、この時に焼け残った根元から出た脇芽が成長したものです。

 

 

 銀杏の木一本にもこんな裏話があるんですね。

そんな背景を知って、実際に見てみると木一本でも見え方が違うような気がします。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 お帰りの際にぽちっとお願いします。

 

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