旅に出たい人が書いたぶろぐ(仮)

元添乗員の「おこめ」が語ります。

岡崎城へ行こう・基礎知識編

お久しぶりの投稿になってしまいました。

そんな久しぶりの投稿の始まりは「岡崎城」を選んでみました。

以前に少し書いたのですが、

もう少し自分の中で詳しく調べてみたいという気持ちもあり

今日から何度かに分けて書いていきたいと思います。

よろしければお付き合いください。

 

 

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岡崎城徳川家康が生まれた城として有名です。

1959年には天守が3層5階建てに復興され、

2006年には日本100名城に選定されました。

 

城内には各階ごとにテーマを分けた歴史資料館になっており

展示物やジオラマシアターなどで岡崎城の歴史を紹介しています。

 

5階の展望室からは岡崎市内が一望でき

顔出しパネルで記念撮影もできます。

 

岡崎城HPより】

 

↓顔出しパネルはこんな感じです。

顔の部分は外れて、顔出しもできますよ。

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目次

 

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大手門(復元)

基本情報

別名:龍城

城郭構造:梯郭式平山城

天守構造:複合連結式望楼型3重3階

築城主:西郷稠頼(つぎより・つぐより)、頼嗣(よりつぐ)

築城年:享徳元年(1452年)(享徳4年説あり)

主な改修者:松平清康田中吉政、本多忠利

主な城主:西郷氏、松平氏、田中氏、本多氏、水野氏

廃城年:明治6年1873年

遺構:石垣、堀

 

概要

岡崎城は菅生川と矢作川の合流地点にある

龍頭山という丘陵を利用して作られています。

元は龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった

西郷稠頼(つぎより・つぐより)、そしてその子頼嗣(よりつぐ)が

北方に対する防御として築城したものです。

それを松平清康が西郷信貞から奪い取り

改修拡張工事整備をしたものが、この岡崎城なのです。

 

もとは平山城として築かれていましたが

本多康重から3代忠利(1600年から1645年)にわたる改修によって

平城となりました。

この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守が建てられました。

 

 

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本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻られていました。

 

存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模であったが

1873年明治6年)の廃城令によって廃城となりました。

 

城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ

現在は一切の建物を失い

本丸と持仏曲輪、隠居曲輪、風呂曲輪などの曲輪と

石垣、堀などの遺構を残すのみとなっています。

敷地は龍城神社、岡崎公園として整備されました。

 

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龍城神社

 

歴史

1452年(享徳元年)または1455年(康生元年)

 龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。

 

1531年(享禄4年)

 城内で竹千代(のちの徳川家康)が生まれました。

 当時櫓や門の屋根もなく、当時は石垣もなく

 ただ堀を掘ったその土をかきあげただけの土塁がめぐっていました。

 

1549年(天文18年)

 松平広忠が家臣の謀反によって殺害されると

 岡崎城は今川家の支城として城代が置かれました。

 

1560年(永禄3年)

 桶狭間の戦い今川義元が敗北すると

 松平元康(後に家康、徳川へ改姓)は岡崎城を取り戻し

 今川家から独立しました。

 

1570年(元亀元年)

 徳川家康が本拠を浜松城へ移し、

 岡崎城は子の松平信康が入りました。

 しかし信康は謀反の疑いをかけられて自刃。

 以後、重臣の石川教正、本多重次らが城代を務めるようになりた。

 

1590年(天正18年)

 家康が関東に移封となると、豊臣家臣の田中吉政が入りました。

 家康に対する抑えの拠点として、吉政は城を拡張し

 強固な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備しました。

 城下町の整備も積極的に行い、現在の岡崎城の原型を作りました。

 

1602年(慶長7年)

 徳川氏譜代の重臣である本多康重が5万石で入城。

 以降徳川政権下では家康誕生の城として重要視され、

 譜代大名が歴代の城主を務めるようになりました。

 

遺構

現存建物

現在城内には現存する建物はありませんが

移築されたものがいくつかあります。

北曲輪門が額田郡額田町の民家に

北門(二の門)が西尾市西浅井町の宿縁寺に

念佛堂赤門が市内東阿知和町の謁播神社(あつわじんじゃ)に

それぞれ移築され、現存しています。

また市内の下青野町の慈光寺に

太鼓櫓を移築したと伝わる建物が残っています。

 

菅生川端石垣

2015年(平成27年)、中心地開発の工事で河川敷を掘り起こしたところ

石垣の一部が発見されました。

この石垣は岡崎城の絵図にも描かれた江戸時代前期の石垣、

「菅生川端石垣」であり、発掘調査により総延長は400mにわたり

現存する城壁としては国内最長となります。

 

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400mすべてみることはできないので

知らなければ、見落としがちです。

 

 

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