旅に出たい人が書いたぶろぐ(仮)

元添乗員の「おこめ」が語ります。

熊本城へ行こう~熊本城が銀杏城と呼ばれる理由~

新型コロナウイルス感染症の急速な拡大の影響により、熊本城特別公開は中止となっています。

行かれる場合は公式HPにて確認してからお出かけください。

 

 

 

銀杏城という名の由来

熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれています。

それは本丸にある大銀杏に由来しています。

現在は特別公開が中止されていて本丸へは入れないので

公開が再開されたら、ぜひ見に行ってください。

 

 

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食料に困った加藤清正

加藤清正慶長の役で、明、朝鮮連軍との間で行われた「蔚山城の戦い」で

寒さの中、食料が尽きてしまうほどの激しい籠城戦を経験しています。

九死に一生を得て日本に帰国したことが大きな教訓となりました。

この経験から熊本城内には地下水をくみ上げられる井戸をおよそ120ヶ所堀り

非常時の食料としてレンコンが栽培され、銀杏が植えられました。

 

ただこの銀杏は雄木なので、実はならず食料確保はできません。

後々の人が、清正の朝鮮出兵の際の 食料不足の逸話とつなげているという説と

清正が雄木と知らなかったという説があります。

真実は清正のみが知る、というところでしょうか。

 

そして熊本城の畳には芋茎(ずいき)を入れ、

壁に中には干瓢(かんぴょう)を塗り込んで

いざというときに食べられるようにするほど

食料確保に徹底したと言われています。

 

こうした籠城対策が、熊本城が最強の城と呼ばれる理由です。

 

 大銀杏と西南戦争

 西南戦争(1877)で、熊本城に立てこもった政府軍は、西郷隆盛が率いる

反乱軍の執拗な攻撃を52日間にわたり耐え抜きました。

結局攻めきれず、退去を余儀なくされた西郷隆盛が残した

わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。

という言葉は有名です。

またこの戦争で天守とともに大銀杏も焼失しました。

現在でも焼失した銀杏の幹には焼けた跡が残っています。

現在ある大銀杏は、この時に焼け残った根元から出た脇芽が成長したものです。

 

 

 銀杏の木一本にもこんな裏話があるんですね。

そんな背景を知って、実際に見てみると木一本でも見え方が違うような気がします。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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